供養やお墓の問題を解決して今をさらに充実させるお寺の終活

葬儀、法事、お墓参り。お寺はとかく死後の世界との接点と捉えられがちですが、仏教はそれだけのためにあるのではなく、仏教はあくまで「今を生きる」ためにあります。
それらのことを深く知ることで、今をさらに充実したものにしてみませんか。今回は125年の歴史を持つ函館市青柳町の「常住寺」の鈴木曦寛(すずき ぎかん)住職に、縁、供養、お墓の在り方など、なかなか聞く機会のない疑問について伺いました。

Q お寺での終活は宗派などと関係ありますか。

A  宗派のことは「みなの宗」でいいでしょう(笑) 終活は宗派を超えた問題ですからね。今年は80歳以上の人口が1千万人を超えました。9年後には660万人の団塊の世代が後期高齢者となります。私も来年はその仲間入りをしようとしている一人です。終活には目に見える準備と、目に見えない準備があると思います。目に見えないものとは、心の準備です。
  土とは祖先なり
  根とは父母なり
  わが今日の生命
  父母、祖先に受く
  尊きかなこの命
  有難きかなこの人生
 来た道を振り返って、この言葉を思うならば、立派な心の終活の一つだと思います。命と人生を大事にして一日、一日を生きようじゃないですか。

Q ご縁を大切にする生き方とはどういうことでしょうか。

A  仏教で言う「縁」は大変難しい論理で、縁は原因と結果に介在して作用することをいいます。「袖振り合うも他生の縁」はご存じだと思いますが、道行く知らない人と袖が触れ合うことさえ、前世の因縁によるということです。
 地縁、血縁というご縁がありますね。昔は、このご縁は濃密で親戚や隣近所のお付き合いは大変なものでした。しかし、現代では隣同士が名前すら知らなかったり、血縁同士が離れて暮らすのは当たり前になっています。高齢化社会の今こそ、ご縁を大切にしましょう。独居老人や老々介護の方々にとって、声掛けやあいさつはとても大事なものになっています。そんな日常の一コマが、時に命を救うかもしれません。
常住寺

正面から見た常住寺の本堂

Q 核家族化、少子高齢化、過疎化などが進み、継承者のいないお墓が増えていると聞きます。
   この問題はどうしたら良いでしょうか。

A  近年、お墓参りが途絶えたお墓が増えています。ここで一つの提案をします。
 将来、無縁化するであろうお檀家のお墓を、最も把握しているのはお寺です。そこで、希望するお檀家と石材店との間にお寺が入り、お寺の納骨堂、合葬堂、永代供養などの施設に、お墓のお骨を移転納骨するというのが私の提案です。納骨するまで1週間のお骨処理はお寺にとって大変です。ですが、お檀家の喜ぶ顔を見られるなら、苦労の甲斐があるというものです。
 現在、札幌では住居、医療、介護などを一括して担う「地域包括介護システム」の整備が進められています。もし、この地域にこの提案を受け入れてくださる御寺院があって、このサークルに参入されますと、高齢者は住み慣れた地域で最後まで自分らしい暮らしを営むことができます。また、これが地方まで波及すれば、一極集中した人口を高齢という力によって、地方に集合できるかもしれません。これは高齢人口の増加を思えば、あながち夢ではありません。

Q 供養の在り方はあるのですか。

A  供養とは、ご先祖や亡き人たちの霊に供物を捧げ拝むことですが、私はいつもお檀家には「〇〇家先祖代々之霊位」の位牌のほか、もう一基「有縁無縁(うえんむえん)之霊位」の位牌をお仏壇に安置するよう教示しています。「有縁無縁」とは、〇〇家以外の一切の霊です。例えば、その家の奥さんのご両親をはじめ、親戚、恩人、友人知人、災害や戦争、あるいは憧れのスターの供養もできるわけです。
 もうひとつ大事なことは、永遠に続く家は無いということです。いつかは有縁無縁となるのです。ですから、有縁無縁の霊を供養することは、いつかはあなたも有縁無縁の人たちに供養されることを意味しているのです。お墓から移転納骨されたお骨も、お寺がある限り、お寺に集うお檀家がいる限り、供養は続きます。
紫陽花

室内に飾られている紫陽花(あじさい)の
ドライフラワー。常住寺は「紫陽花(あじさい)寺」
とも言われている。

Q ペットの供養はお寺ではできないのでしょうか。

A  ペットは人の言動をよく理解し、喜怒哀楽を表してくれます。時々訪れて慰めてくれる人よりも、毎日そばに寄り添って心を癒やしてくれるペットに感謝しましょう。人とペットの愛情と、そのペットの霊にお寺は供養の門を閉ざすことはありません。

今できることを数える ~吾唯知足(われただたるをしる)~

 小学校から高校まで同期であった私の親友は、42歳で胃がんのため亡くなりました。彼は港の見える病院に入院し、私は毎日のように見舞いに行きました。医者には、氷はいいが水は飲まないようにと指示されていた時期のことです。
 頑健なスポーツマンであった彼は、ベッドにあおむけに寝たまま、頭の下に細くなった腕を組んで「鈴木!俺は氷をかめるぞ」と言い、また「港の方へ寝返りもできる」とも言って静かに笑いました。涙が出そうになった私は「そうか、そうか」と彼の肩をたたきました。その言葉は年を経るごとに忘れることができないものとなりました。
 彼はあの時「今できること」を数えていたのです。私たちは、できないことや、失ったものなど、無いものを数え上げて、不幸を嘆いていないでしょうか。生老病死を仏教では「四苦」と言います。病の中での友人の言葉は「吾唯知足」にあたります。この少欲知足の精神は、お釈迦さまが沙羅双樹の間で涅槃(ねはん:仏陀の死)に入る時に、弟子達に遺した最後の教えです。
 病気や老いで失ったものを数えず、いかなる時も常に「知足」の教えに立ってみると、自分でも気が付かなかったもの、これまで長い時間をかけて自分の中で培った素晴らしいものを見つけるかもしれません。

講師 常住寺 第10世 鈴木 曦寛(ぎかん) 上人
常住寺 ホームページ http://www.jyojyuji.jp

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