宇宙を通じて子どもを育む

未来のガリレオたちへ

JAXA相模原キャンパスにて

2013年3月6日インタビュー

的川 泰宣
1942年広島県生まれ。東京大学大学院工学研究科航空学科修了。日本初の人工衛星「おおすみ」の打ち上げに貢献、数々の科学衛星を打ち上げ、小惑星探査機「はやぶさ」プロジェクトにも携わった。2008年にNPO法人「子ども・宇宙・未来の会(KU-MA)」を設立。
植松 努
1966年北海道生まれ。 北見工業大学応用機械工学科を卒業し、菱友計算(株)航空宇宙統括部に入社。 のちに植松電気に入社しカムイロケットの開発に携わる。 その活躍ぶりは「NASAより宇宙に近い町工場」として知られる。

―宇宙への思いと、お二人それぞれの出発点を聞かせていただけますでしょうか。

植松さん:1番最初の記憶にあるのは祖父ですね。大変やさしくて大きい祖父が僕は大好きでした。 その祖父のあぐらの中でアポロ着陸を見たんです。 家族みんなが喜んで、とても良い雰囲気の中で見た記憶があるんです。

的川先生:植松さんは、アポロのときおいくつだったんですか?

植松さん:3歳です。

的川先生:よく覚えているなぁ。

植松さん:ただ、画面はなんにも覚えてないんですよ。僕が覚えているのは、その雰囲気なんです。

的川先生:なるほど。

植松さん:祖父のあぐらの中のぬくもりと、その祖父が僕の肩をつかんで、すごい喜んでいるんですよ。 「ほらみろ、ほらみろ!人が月に行った!」って。

的川先生:アームストロング船長のアポロ計画のときですね?

植松さん:そうです、それでおまえも月に行けるぞって、すごい時代になったって大喜びしているのが、 記憶にありますね。それから、よく祖父が仕事で集金に行くときなどに僕を連れていってくれたんですね。 でも、向こうの会社の人と話し込んでしまうので、「おまえは暇だろうから本屋でも行っといで」と言われて、 本屋に行かされるんです。そこで飛行機やロケットの本があると、祖父は買ってくれるんです。 それで僕の頭をなでてくれるんですね、「こんな難しい本を読むのか」って。

的川先生:いいおじいさまだ。

植松さん:はい。それがうれしくて。 だから祖父を喜ばせたくて好きになったのが、僕の宇宙へのスタート地点だった気がします。 そういえば、この間プラモデル屋さんに行ったら、小さい男の子がプラモデル屋さんの中を走って、 「パパの好きなスカイラインがあるよ!」とか「パパの好きななにがあるよ!」って言ってるんです。 要はパパの好きなものを一生懸命探しているんですね。きっとそれでパパが喜ぶんですよ。 だから、親が好きとか家族が好きなものを自然と子どもが好きになるっていうことがある気がします。 家族や大人が喜ぶとか興味を示すっていうのも大事だと思いましたね。
いまだとさしずめ理系ということになるのかもしれませんが、 当時は理系・文系という概念自体がなかったんです。 実は祖父たちは樺太で暮らしてたんですよ。そこでものをつくる、 というか車屋さんをやっていたんです。 車屋さんていうのは車の修理ができないと成立しないんですよね。 エンジンブロックが割れたら、 エンジンブロックを作るくらいの努力をしないと維持できないんです。 外車しかないから、国内で部品が手に入らない。
エンジンブロックといえば壊れてしまったら、もうどうしようもない部分ですが、 自分たちでマネしてつくるんだそうです。鋳型からおこすような感じで、 部品が手に入らないから作るしかなかったんですね。 だから昔の人たちはかなり作れる人が多くて。なければ作れっていう人たち。 だから祖父たちは、そう言う意味ではものをつくれる人たちでしたね。

的川先生:植松電機はお父さんが作られたんですか?

植松さん:そうです。父は中学生になったときに樺太から戦争が終わって帰ってきたんです。 母も樺太です。だから同じ街でみんな暮らしてて、そこから戻ってきてから、 父と母が一緒になってるんですけど、父の家族は車屋さん、母の方は鍛冶屋さん。 でも母たちは占領されたあとも7年くらい戻ってこれなかったんですよ。 鍛冶屋さんの方がニーズがあったようで、樺太にそのまま残留して、 ストーブを作ったりしていたようです。家のそばに飛行場があって飛行機飛んでるのを見てたとか、 道ばたに壊れたロシアの戦車があって部品を取ってきたとか、 子どもの頃の経験としてそんな話を父も母もよくしていて、 そういうものも自分にとってはプラスになったんだと思います。的川先生はいかがでしたか?

的川先生:僕は、そんなに特殊な興味はずっとなかったんです。 実は宇宙で生きていこうと思ったのも大学に入ってからなんですよ。 ただ1番印象に残っているのは、小学校4年生ぐらいのときに天体望遠鏡で初めて見た天体が月だったんです。 そのとき目に飛び込んできた月がものすごくきれいだったんです。満月を少し過ぎたあたりの印影感のある月で、 今でも目をつむると思い出せるくらい、びっくりするほど美しい月でした。一生忘れられない感動ですね。 それと僕は呉の出身なんですが、小さい頃よく兄と一緒に瀬戸内海に釣りに行ってたんですね。 夜釣りに行くと、魚がかかるまで暇なので星を見るしかないんです。星にはずっと親しんでいましたね。
月や星に親しんではいたのですが、なぜロケットを選んだかということがまた不思議なんですね。 なぜ天文学に行かなかったかと言うと、天文学が好きな人たちは、 例えば、赤い色の星や青い色の星を見て「なぜ色が違うのか」と研究しようとするんですね。 でも僕は違った。ただ、ただ美しいという感動を覚えるだけなんです。つまり分析性がない(笑)。 ところが小学校5年生のときに、シリウスは9光年、プロキオンは11光年で距離が違うと聞いたときに、 宇宙の奥行きのようなものを感じた瞬間があったんです。おびただしい数の星空を見上げたときに、 それぞれ発した時代が違う、ということは、宇宙の時代が違うわけです。 そうすると見ている世界が全部博物館のように見えてきて、宇宙の歴史が綿々とつながっている、 その中を分け入っていくような不思議な感覚にとらわれた瞬間があるんです。
同じ星を見て、どうして青い星と赤い星があるのかと考えるタイプとそうではないタイプ。 この違いはどこからくるのかというと、もっと前の経験が分かれ道になっているんだと思いますね。 正確にはわからないけど。それと中学校に入ってから「ペンシルロケット」というニュースを新聞で読みまして、 自宅で兄や父が「日本もロケットをやるらしいよ」という話をしているのを聞いたことを覚えていますね。 僕は中学生になっていたにも関わらず、残念ながらロケットっていうものを知らなくて、 「ロケットってなに?」と聞いたんです。 そうすると、「お尻から火を噴いて飛ぶものだ」という答えを聞いて、 感心したんですね。そのときに「ペンシル」という単語と「糸川英男」という名前が頭に刻み込まれたんです。 まさか大学院でその先生の研究室に入るとは思いませんでしたけどね。 研究室を選ぶときにリストに糸川英男とあって、「あ!」っとなったんですよ(笑)

―人類が宇宙に関わることの意義や感動についてお聞かせください。

的川先生:高校生のときにはスプートニクがありました。 人間の作ったものが地球を回るというのはすごいことだと驚きました。 西の空を点滅しながら動いて行くのを僕は肉眼で確認しましたが、 中学校のときに天文ファンの先生がおりまして、 その人は日本で2番目にスプートニクを肉眼で確認した人なんです。 1番は新潟の人だったようですが、その先生はなんで2番なんだって悔しがっていましたけども(笑) もともと広島大学のたぶん数学科を出た先生でいらっしゃって、計算が非常に得意なんですね。 小惑星の軌道計算ができる人でしたので、どこかでスプートニクの軌道要素を手に入れたんでしょうね。 僕らはもう高校生になっていましたけども、見に来いと誘われて中学校の屋上でみんなで見たんです。 そのとき「人間が作ったものが回っている」と大変不思議な気分になったのと同時に、 なんだか世の中がなんとなく幸せになるような感じがして、ちょっと気持ちがよかったのを覚えています。 まあ、実際には勤評闘争が始まってやがて安保闘争へと続く時代ですから、 幸せどころではなかったですけど(笑)
1955年のスプートニクの3カ月後、 1956年の初めにアメリカもエクスプローラというロケットを打ち上げて成功してるんですね。 でも、実はその前の1955年12月に、アメリカはヴァンガードというロケットを打ち上げて、失敗してるんです。 発射したとたんに大爆発して倒れたんです。その次の日にアメリカの技術者の手記が新聞に載ったんです。 それを一生懸命読んだのを覚えていますね。 国を背負ってやった仕事が惨めな失敗に終わって恥ずかしいと同時に大変悔しいという内容なんです。 それを読んだとき、心の中に大きな衝撃が走ったんです。 スプートニクの時に感じたふんわりした幸せな感じとは違って、ヴァンガードを読んだときに、 これはものをつくらなければ何にもならないんだという意識が芽生えたんです。 星を見るとか好奇心があってどこかへ行くという気持ちがあっても、 要するにものをつくらなければいけないんだということが意識に入りましたね。
それで、大学2年生のときに進路を選ぶのですが、 自分の育ってきたプロセスで非常に印象的だったことは何かと考えみたんですが、 それは次から次へと浮かぶのは、お月様だったり星だったり、 スプートニクだったりヴァンガードだったりするんですよ。ああ、僕が育ってきた時代というのは、 人間が宇宙へ進出していく時代と一緒に歩いてきているんだなと感じて、 よし、宇宙をやろうと決めたんです。ところが、そのときは天文学科しかなかった。 それが途中から宇宙工学を新設する、ただし定員は3名ということを聞いて、 3人じゃなぁと思いながらも、第一志望宇宙工学、第二志望天文学、 そして第三志望にこうなったら西洋史(笑)

植松さん:全然違うじゃないですか(笑)

的川先生:いや、全然違うんだけど、 宇宙への人間の取り組みの歴史みたいなのをやろうかなって思ったんですよ。 でも、幸いにして第一志望の宇宙工学の一期生になれて、それから宇宙のことをやり始めたんです。 大学で2年ちょっと宇宙のことをやったんですが、全然勉強不足でこれじゃ何にもならないと思い、 大学院に進むことにして、それで糸川先生のところに行ったのが運の尽きというかね(笑) 糸川先生に非常に影響を受けてしまいましたね。ちょっと大変な人だったんですよ(笑)

―非常に高名な方でいらっしゃいますね。

的川先生:ユニークな人でね。頭がいいっていうのとはちょっと違うんですよ。 頭がいい人っていうのはいくらでもいますけど、発想がまったく違うんですよね。変わってるんですよ、 要するに。常識からの脱却ってみんな言いますけど、僕からしたら、 この人もともと常識がないんじゃないかって(笑)全然違う発想するんですよね。 だから宇宙に行ったというのは、宇宙そのものについての思い入れもあるけれども 、糸川先生を通じてやっぱり宇宙の取り組みをやりたいと思ったのは大きくなってからはあるなって感じますね。 あと、呉に育ったので、大和という当時の巨大プロジェクトの印象があるかもしれません。 小さいときは大和、大和ってずっと言ってましたね。戦艦大和と広島カープとやくざなんですよ、呉は。 仁義なき戦いって映画あったでしょ?あれの舞台なんですよね。

―子どもたちの夢や可能性をどのように受け止め、広げていくべきかについてお聞かせください。

的川先生:当時、大和の建造は秘密になっていたんですが、 大和の秘密ドッグが見える高台に母が勤めていた高等学校があって、 そこに面した窓は全部板張りがしてあって、見ちゃいけないってなってたんですけど、 僕3歳でしたから、トコトコ歩いて行って見てたらしいです。母が慌てて連れ戻したって言ってましたね。 僕は全然覚えてないんですけど、母が言ってましたね。ただ兄が学徒動員で大和の部品を作っていましたから、 大和の話はずっと聞かされてましたね。大人の話とか夢に子どもはやはり影響を受けますね。

植松さん:ときどき講演などで呼ばれていくときに、 子どもに夢を与えてくださいって言われることがあるんですよ。ふざけるなって思う。 奪わなきゃいいだけなのに、何を言ってるんだって。うちの工場にいろいろな人が見学に来るんですよ。 下は幼稚園から上はお年寄りまで。「このボタン押してみたい人?!」と言うと、 幼稚園児は全員殺到するんですね。みんな押したがる。質問もしてくるし、興味も持つし、 頑張りましたって褒めてくれるしね。 それがなぜか歳をおうに従って、誰も手があがらなくなってきて、高校生ぐらいになると異性の目だけ気にして、 ウケを狙ったりする世界なんですよ。なんだコイツらって思いますよね。 こいつらきっと納税しないだろうって思うような人がいっぱいできちゃうんですね。
なぜそうなるのかなって思うんですけど、子どもってもともと好奇心があるんですよ。冒険心もある、 やりたがりの知りたがりなんですよ。それをいかにスポイルしてくのかなっていうのが問題で、 その最有力が僕は宇宙だろうと思うんですよ。 だって幼稚園児や小学校低学年の子が宇宙飛行士になりたいって言ったら、 「あら、いいわね~」って言われる。 ところが高校生ぐらいでそれを言ったら「あんたもう少しまじめに考えなさい」って言われるんですよ。 だって宇宙なんて言うのは、ものすごいお金がかかるんだと、 よっぽど頭が良くないとできないんだってみんなが教えてくれるんですよ。
だから、おそらく日本人の大半の人が宇宙開発というのはよほど頭がよくないと無理で、 よほどお金がかかる国会事業と考えているんです。でも、このほとんどの人が持っている常識は、 ほとんどが宇宙開発をやったことがない人が教えた常識なんですよ。憶測なんですよね。 で、この憶測を覚えた人たちは以後どんな夢を見つけたときにも、お金がないな、余裕がないな、 自分はそんな知識ないな、ということで追っかけないでやめるんですよ。で、夢を諦めたっていうんですよ。 それ追っかけてないから、諦めたことにならないよ、と思うんです。
宇宙は無理だよ、できるわけないよって覚えられちゃった人は、 以後どんなものも諦められるようになるんだろうなと思います。そうではなく、 子どもたちが「宇宙飛行士になりたい」って言ったら、 「いいね、どうやったらなれるか考えよう」ということをひたすら一緒に考えてみる。 「考えてみたら宇宙飛行士1人飛ばすのに1万人くらい人が要るね、 この人も作らないと飛べないね」って話になるわけで、じゃあそっちの人たちも、 自分クラスの中で「宇宙飛行士になりたい」っていったら、「頼むから俺のためにロケット作ってくれ」とか 「頼むから俺のために管制してくれ」っていう仲間つくらないと飛ばないよっていうぐらいのことを みんなが考えるべきかなという気がしますね。だから、どうやったら可能になるかだけを考え続けていれば、 なんぼでもできることが増えるのに、できない理由って1個見つけちゃったらすべてに適用できますからね。 だから僕は、宇宙はすごく大切な部分だろうと思いますね。
あとうちの父がものをつくるのが好きな人で、映画も好きだったんですよ。007シリーズが大好きでね。 あの映画はメカニカルなものがいっぱい出てくるでしょう。影響を受けて、自分でまずボート作ってましたね。 ボートは買えないから、じゃあ作るって言って、自分でボートを作って川まで引っ張ってって乗ってましたね。 がんがん、がんがん鉄板叩いて。
でも結果的にはダメだったって言ってましたね。波は強いって(笑) ボートがたわむと抵抗がすごく大きくて走らないって言ってましたね。 だからボートをよほど強く作らないとならないって。あともう一つは水中スクーターも作ってたんですよ。 007がびゅーっと水の中をいくやつ。バッテリー積んで、モーター積んで、 プロペラ付けて、大きな水槽作って、水入れたらブワーッて水が飛んでるんですよ。 子供心に威力がありすぎなんじゃないかと思ったくらい(笑)
そしたらやっぱりね、海持って行って遊んだら、まず海パンが脱げると(笑) 大変だって言ってましたね。あと間もなく爆発しましたね。 水中で密閉された空間内で直流のモーターをばんばん回してるからバッテリーからガスが出て、 ブラシの火花でもってバーンということで、はい沈没と。 そのとき、うちの父と会社で働いてる若い人たちが水が飛んでるのをみんなで喜んで、 うおーとか言ってるのを見て、嬉しくてね僕も。なんか知らないけど、すごいんだって思って。 それが自分の家で作ってるんだと思ったから、「なるほど、 007の映画で出てくるものも自分の家で作れるんだな」という、 できるかも知れないという勘違いをもたらすにはすごく重要なきっかけだった気がしますね。 だから大概のもの見ても仕組みさえ分かれば作れるんじゃないのって気がするんですね。 すごく自分にとってはいい経験でしたね。

的川先生:周りが楽しんでれば、子どもも楽しいよね。

植松さん:失敗も笑いながら言ってるんですよ。「いやー、爆発したわ!」って(笑) 失敗を笑い飛ばして、次のことを考えたりしている姿というのは印象に残っていますね。

的川先生:ちっちゃい子は植松さんがおっしゃるとおり、何でも好きなんですね。 星もそうだし、虫も好きだし、海や山や川へ遊ぶのが大好きでしょ?いろんな事情があって、 大きくなるとできなくなるけど、でもちっちゃい時に大好きだったことが、 なんだか勉強みたいなものになると嫌いになる段階がくるんですね。でもそれは微妙で、 もともと犬や猫や虫と遊ぶのが好きだったのに、生物学になると大嫌いになるわけですよ、普通。
どうして大好きなものを考えるのに嫌いになるのかっていうところが1番大きな問題ですよね。 ちっちゃいときは、好奇心とか冒険心とか心が好きなものが分化してない、分かれてなくてひたすら好きなわけです。 好奇心や冒険心みたいなものは外から与えられるものではなくて、潜んでいるのだけど、 子どもの心の中では、そういう好奇心みたいな概念となって潜んでいるわけではないですよね。 好きなハートがあるわけですよね。それをだから、上手に知的なものに転換できるかどうかが鍵で、 それが児童心理学の人に聞いても何歳くらいなのかよくわからないんです。 小学校5、6年生のころに意識し始めるけど、もっと小さいときに絶対あるんだと。
それがだから三つ子の魂百までとよく言いますけれども、あの頃たぶんあるんじゃないかと思うんですけどね。 わからないんですよ。というのは、その頃の子どもはわからないから、自分では。 大人がだから観察して察知するしかないんだけど、まだそこまでは学問的には進歩してないらしくて。 だから、その大好きな気持ちから、 どういうふうに好奇心みたいなものにはっきりと顕在化して育っていくのかという微妙な段階が子どもにはあって、 そこを我々がどう接するかということだと思うんですね。
例えば、ノーベル賞をもらった野依さんが記者会見の時に「先生、ノーベル賞をもらうまでにずいぶん勉強されて、 それに1番よかったのはどういう経験ですか?」って聞かれて、 「やっぱり小さいときに遊びまくってたときだな」って言って、 あのときに自分のあらゆる好奇心みたいなものが目覚めたという話をしていました。 だから専門の化学とかだけじゃなくて、生き物も何もかも好きだったと。
そしたら新聞記者がするどい質問したんですよ。「そのときに一緒に遊んでた子どもがたくさんいますよね?」と。 野依さんはそのときいやーな顔を一瞬したんですけど、「その人はどうなったんですかね?」って聞いたんですよ。 だから、同じ環境で遊んでて、みんなおもしろく遊んでた世代なわけですよね、で、友達もいっぱいいた。 野依さんだけがそういう好奇心ががーっと育っていったわけですよ。それで聞かれて野依さんはぎくっとして、 結局最後はごまかしてましたけどね。「自分もわからない、そうだね、 あの人たちどうしてるかな」って懐かしそうな顔してしまいでした。新聞記者の人は不満そうでしたね。
たぶんそこのところに鍵があって、難しいんですよ。解答がまだないけど、 我々はこういうことをやりながらずーっと研究はしてますけど、幼稚園の子なんかはそうですけど、 小さければ小さいほど無垢な好奇心が我々から見るとあるんで、 子ども自身が好きで好きで仕方ないっていうのをそれをどういうふうに、ちょっとやれば火がつくんですけどね。 そこがやっぱりみんなで頑張って育てていかなきゃならない部分だろうなって思うんです。
もう高校生や大学生になったら遅いんです、まったく育ってしまってて。 嫌いなものは嫌いっていうふうになってますから。みんながそういう何もかも大好きだっていう時代が、 やっぱり1番大事で、そこをどう日本人を育てるかということです。 中国にもドイツにもアメリカにも子どもっているわけだけど、 その微妙な段階の子どもに我々がどう接していくかという、国なり、地域なり、家族なりの体制が、 もう20年後の国と国の競争を決めてるっていうぐらい僕は大事だと思うんですね。 いま、すごく頑張ってそれをやらないといけないなって気はしてます。

―いまの子どもたちに宇宙開発の意義を伝える教育をやるとしたら、
どういう教え方をすればよろしいとお考えですか?

的川先生:あんまり宇宙開発の意義なんかは教えたくないですけどね。 宇宙というものを教えるんだと思うんです。というのは、我々の概念では宇宙というのはものすごく多面的で、 元々の定義から言えば、もちろん中国の文書に宇宙という言葉があるんですが、それではなくて、 宇宙開発ができる国というのは国力ないとダメなんです。経済力があって、それなりの技術レベルがあって。 日本という国は、僕が生まれたころは全然それは無理でした。でも、幸い20世紀の後半に経済発展をして、 それでやっとできるようになったので、たとえばベトナムなどの国で宇宙の仕事をしたい、したいと思っても、 そこで生まれた子どもはできないわけでしょ?だから日本に生まれたってことで、 僕なんかも宇宙に取り組む仕事ができたけど、それは本当に運みたいなものですよね。 だから、日本人が宇宙に取り組む意義なんていうのは特に潜在的にあるわけではないんです。 日本人は宇宙開発に向いているとか、そういうことはないと思うんです。
ただ宇宙というのは、銀河とか星とかロケットとか、そういう特殊な世界ではなくて、 宇宙そのものの存在っていうのは、我々を包んで宇宙なんです。たんぼぼの種が飛んでも、猫が走っても、 それは宇宙の中で起きてるひとつの些細な事件であって、宇宙のとらえ方が非常に本質的に、 すべてが宇宙だというふうな感じを子どもがそこに浸りきるんですね。 そうすると自分も宇宙の中の不思議な生き物だという感じが出てくると思うんです。
それがまず大事で、そうすると宇宙への取り組みというのがかなりいとおしいものになりますよね。 それをもっとわかりたいなって。津波が起きても、それは宇宙の中の事件っていう。 そういう広い世界で捉えるための視座が宇宙というものにはあって、それは国際問題を処理したり、 国の建設をしたり、あるいは家族をどうするかとかいうこともすべてに通じるものなので、 宇宙の多面性とかそういう多彩さっていうのは、一番子どもに感じて欲しいことだと思うんですね。
日本が宇宙開発を一生懸命やってますけど、 みんなが宇宙開発をやり始めたら国なんか成り立たなくなってしまいますから(笑) ただやることによって素晴らしい成果がでてくるし、 一番大切な話っていうのは日本が地球の中でみんなが幸せになるために貢献できるかどうかなんです。 自分たちの夢がかなうということと同時に、 日本ぐらいの国がよそについていこうという意識じゃ申し訳ないですよね。 もっと貧しい国はいっぱいあるんだから。宇宙を通じて開拓できることは、日本みたいな国がもっとやって、 それで世界に貢献するという意識がないとダメだと思うんですけど、 そこの部分がやっぱり子どもの心に育って欲しいと思います。日本に生まれた運の良さをね(笑)
われわれは、宇宙という言葉は便宜的に使ってますね。宇宙飛行士というときは数百kmまでのことをいうんですね。 宇宙の膨張というときは全然スケールの違うことを言ってて、不便ですよね。 宇宙と言う言葉が一種類しかないというのは。そこは気をつけて使わないと。 だから宇宙飛行士の人も気の毒なのは、質問のときに本当に何でも質問されるんですよ。 だから毛利さんなんかは困りますよね、ブラックホールにしてもわからないってなかなか言いずらいから、 大人のメンツがあるから(笑)向井さんみたいな正直な人は「え?わたし、わかんない」なんて普通にいいますけど、 あれくらい素直な人はなかなかいませんからね(笑)

植松さん:僕は考えてみたら、「宇宙のことを学んでくれ」ってことはひとつも言ってないんですね。 あくまでも宇宙は無理なことがないんだよって、宇宙開発はできるんだから、 科学が発達してできるようになったのだから、ほかのどんなこともできるんだって知って欲しいですね。
そのための越えられないと思い込んでいるけど、越えられるハードルとしてしか伝えてないんです。 でも成長するために絶対必要なエネルギーが憧れだよ、と。だから憧れがないといけなくて。 届かないものに手を伸ばし続けて、ジャンプし続けていたらすごく成長できるんですね。 幸い宇宙は広がり続けて届かない、いつまで経っても果てがない。追っかけ続けられるから面白いよと言いたいですね。 宇宙のことは、本当にしんどいこともたくさんあって、大変なんだけど、でもうまくいったらうれしいし、 うまくいったときに出てきたもので他のものがよくなることもあるから楽しいよという話もするんですけどね。
この間、子どもにロケット作ってもらうんですけど、そのとき女の子が書いてくれた感想文で、 「わたしは不器用で、宇宙に興味もないし、そんな仕事もつく気もないし、 まったくやる気ありませんでした」って(笑)「ところが、今日自分が器用であることに気がついてしまいました。 おもしろかった」って書いてくれたんですね。そのときなんか泣けてきたのが、 「なんでこの子は自分が不器用だと思ったんだろうか」って。

的川先生:ああ、そうか。大人が言ったんでしょうね。

植松さん:どこかでこの子が書いた絵がバカにされたり否定されたり、 何か作ったものが何か言われたかで、不器用というバリアを張っちゃったんだな、かわいそうにって思いましたね。 その子、6年生でしたが、おそらくもっとその前の段階で言われたんでしょうね。
本当はみんな器用で、みんな何でもできるんですよ。幼稚園の子が来てくれて書いてくれた感想文には、 うちに来てから何でもできるようになりました、何でもできてうれしいですって書いてあったんです。 その何でもできるという勘違いこそが人をつき動かす力だから、その勘違いを感じてもらうためにも、 宇宙は大人ができないって言ってるからこそできたら面白いよってことを伝えていきたいですね。

―植松さんは、独学で機械工学の中の流体力学を学ばれたそうですが、 これはどういうふうに勉強されたんですか?ロケットを作る上で、その流体力学がどのように役に立ちましたか?

植松さん:スタートは零戦とB51なんです。小学校のとき流行ったんですよ。 カウンタックとフェラーリベルネッタボクサーが問題だったんですよ。スーパーカーが2台あります。 どちらも時速300km、馬力が違う、重さも違う。どっちかが嘘ついているに違いないと僕は思ったんです(笑) 同じわけないだろうって。
それで調べてみると、どうも空気抵抗というものがあるらしい、 その差があると馬力が一緒じゃなくても差が出るということがわかったんです。 あとB51と零戦という飛行機もエンジンの馬力はそんなに違いがないんですよ。 片一方が700キロで、片一方は500キロなんですよ。なんでこんなに差があるんだろうと思ったのが、 小学校の4、5年生だったと思うんですが、それがスタート地点だと思いますね。 それで調べてみると空気の話がいっぱい出てきて、 そうしたら音速度を超えるときの苦しみの話なんかにも出会うし、 自動的に飛行機とかロケットにどんどん入っていって、その中でなんとなく覚えていきましたね。

的川先生:強いですね、実践的だからね。教科書でやるのとはワケが違う。

植松さん:すごく助かったのは、小学校3年生のときに出会った、 子どもの科学の後ろの付録が集大成で販売された、二宮さんの「良く飛ぶ紙飛行機集」という本なんです。 1冊目、2冊目は普通に型紙だったんですよ。でも僕は型紙でできるグライダーでは飽き足らなくて、 あまりにもやんごとなき飛行機ですからね(笑)どっちかというと、もっとまがまがしい飛行機を飛ばしたい、 どうしても零戦飛ばしたいし、ジェット機飛ばしたい、でも自分で作ると飛ばない、面白くない。 図鑑からトレースして書いて飛ばしたら飛ばないんですよ。
そしたら恐ろしいことに3冊目に、紙飛行機のスケールモデルの設計の仕方が出てきたんですよ。 縮尺をとってきて、重力面積決めて、重心位置決めて、尾翼の面積の求め方とか全部書いてあって、 それですっかりなるほど、これは計算できるらしいということがわかったんですね。 それで中学校のときには電卓ではやってられなくなって、パソコンを買ってもらいましたね。
そしてだんだん飛行機ってどうやって曲がるんだろうってことになって。 零戦とB51、どっちの方が小さく曲がれるんだろうって。旋回性能は零戦の方が上とされているんですが、 でも実際にはあるところではB51の方が上なんですよ。 遠心力が限界に達するまでは零戦の方が小さく回れるんですよ。 ところが遠心力が人間の限界に達したところで、あとはもうどっちが丈夫かってことが勝負になってくるんですね。 そうすると速度が速くなると、B51の方が全然よく回れるということがわかって、非常に面白くて。 東大の加藤寛一郎さんという人が飛行機の運動についての本を出してくれたりして、 それからまたどんどんそっちのほうに…

的川先生:最近また書いてましたね。

植松さん:そうですね、しばらく書いてらっしゃらなかったですけど。 でも、そのとき、すごくわかりやすい本を書いてくださったおかげで、 それで高校生くらいのとき僕は勝手に微分方程式で解析していたんです。
最初は、ですから飛行機を作りたかったんです。どちらかというと、空気のある方が得意分野で。 でもロケットがつらいのは空気があるところですから、ロケットも好きですよ。 あと、飛ぶものはみんな美しいです。ゴミ袋が宙に舞ってても美しいなって思いますからね(笑) うらやましいです(笑)

的川先生:この部屋には、いま80いくつの品目があるんですが、 もう間違いなく子どもが好きなのは飛ぶことですね。飛ぶ教材はいくつかあるんですけど、 どれでも大好きですね。すごい好き。だから、人類は飛ぶことがずーっと好きだったということですね。

植松さん:飛べないからでしょうね。やっぱり。

的川先生:そうですよね。憧れがあるんでしょうね。 熱気球だってモンゴルフィエという人が焚き火を見てて思いついたって話ですからね。 紙屋さんだったからね、あの人たちは。あ、これで紙の袋作ったら飛ぶんじゃないかって思ったって。 でも焚き火をした人はいにしえからずいぶんいるはずだけど、 どうしてそれを今まで考えつかなかったんだろうってのは不思議ですけど(笑) どっかでひらめきがあるんでしょうね。

植松さん:紙屋さんだったからでしょうかね。 軽量で強い紙が作れるなって認識があったからでしょうね。 きっと布だと、普段つぶれている状態だと、火を焚いたら燃えてしまいますけど、 紙って形を保ってられますから飛べたんですかね、もしかしたら。

的川先生:いまゴミ袋で作るんですよ。4つ、大きな…。飛んでいきますね。 ただやるのは雨降ると困るから、講堂とか体育館みたいな大きなところでやるんですけど、 でもすぐ天井についてしまう。
一度屋外でやったことがあるんですが、今日は晴れてるからって、ヒモつけてね。 ヒモつけないと消防署が怒るから。そしたらね、ヒモが切れちゃった(笑)飛んでっちゃってね。 いや困ったな、これはってなったんだけど、森の方飛んでったからよかったけどね。 あとで消防署に言ったんですけど、探してくれたけど見つからなかったって、どこか飛んでっちゃった。 みんな大喜びでしたけどね。

―今まで携わってこられた事業で、一番印象に残ったプロジェクトはなんでしょう?
それからNPO法人KU−MAというのはどんな活動をされているんでしょうか?

的川先生:あとの方から言うと、KU−MA(クーマ)という名前はずいぶん議論して決めたんです。 先ほどいった宇宙の多面性というものが、宇宙の持っているこういう側面、 こういう側面…というものをずーっといろいろ見ていくと、 子どもが持っている自然や生き物への興味みたいなものと共鳴する部分がものすごく多面的にあるんですね。 そうすると、例えば、素粒子教育ってないんですね。素粒子はなかなか共鳴しない。 宇宙という概念は、あらゆるものが宇宙なので、 子どもの心を育むという部分でものすごくいい素材がいっぱいあるんですね。
この間、女の子がお母さんが一緒に料理をしているときに、なす、きゅうり、キャベツなんかがあって、 じーっと見てるんですね。なすにはヘタがある、きゅうりにはないの?ってお母さんに聞いたらしいんですよ。 「ねぇ、ねぇ、聞いて。ママ」と。するとお母さんは、なんと答えたかといえば、 「そんなくだらないこと考えないで算数やりなさい」って言ったと(笑)
それで僕は「ああそう、ママも言い分があるかも知れないからちょっと聞いてみよう」って言って、 お母さんにたずねたところ、「いや、それがね、 わたしは何十年もなすときゅうりと付き合ってるけどそんな疑問持ったことない。この子すごいな、 よく気がついたなと思ったけど、その次の瞬間にこれはやばいと思って、絶対答えられないと思って。 それでちょっと大人の照れというか、メンツもあって、その場しのぎでちょっと言ったんですが、反省してます」 とのことでした(笑)その女の子に「じゃあ、ママが『本当だ!あなたずいぶんいいところに気がついたね、 ママ全然わかんなかったよ。じゃあ一緒に調べてみようか?』って言ってくれたらよかったの?」ってたずねたら、 子どもが「うん」って言って確信ありげな顔してうなずいてましたね。 そしたらお母さんがニコニコして「これからはきっとそうすると思います」って言ってました。
そういう子どものすぐそばに、なすやきゅうりやたんぽぽがあって、いろんなものがあって、 そこにもう宇宙の材料があるんですよね。猫と遊んでも、 とんぼの羽をちぎってもそこに宇宙というものを問題にするための素材があるんで、 それをどう切るかということだと思うんですね。
だから、なすときゅうりの話にしても、それは植物の進化っていう、 生命の進化っていうプロセスで生まれてきたものすごく面白い話があるわけで、 子どものすぐそばで感じているいろんな身の回りのものから宇宙というものへどうやってつなげていくかっていう、 そのつなげ方次第で子どもがぐんぐん、ぐんぐん伸びていくんです。そういう素材で宇宙はみちあふれているんです。 そこの部分がどういうふうに組織されるかってことが大変大事であって、宇宙の素材を最大限我々は活用していく。 でも、一番見ているのは子どもの身の周りで、 それを何とか教材にして結びつけていきたいという気持ちで始めた組織なんですね。
で、宇宙の学校という試みをしているわけです、宇宙の学校という言葉を登録商標をとったんです。 世の中には使ってる人たくさんいますけど、文句は言いませんけどね(笑)言えば言えるんですけどね(笑) そういう動機だったんです。でも、ご覧の通りの手狭で、働いてくれる人も二人しかいないし、 NPOって大変ですからね。

植松さん:ここがその本拠地なんですか?

的川先生:そうなんです。それに会員も300人くらいしか集まらないし。とにかく大変なんです。 網走から那覇まで50カ所でうちの学校はやってるんですけど、それをここで全部やってるんです。 僕はWEBからこういうものの組み立てから、会員の管理まですべてやってるんです。 とてもじゃないけど、これ以上広げられなくて困ってるんです。
どこに行ってもやろうって言ったらすぐ立ち上がりますからね。 親子でそういうことをやるっていうニーズは大変あるのに、 我々の力不足で始められないっていうのが大変残念なんです。我々も商売でやってるわけではないので、 できるだけ広げたいという気持ちだけはあるんですけどね。 この間も文部科学省へ行って、 「文部科学省って家庭教育ってずいぶんスローガンに掲げてるけど、何をやってるの?」って聞いたら、 「それがね、考え方はいいのだけどツールがまったくなくて」って言うんですよ。

植松さん:宿題だけですね、あるのは。

的川先生:とにかくダメなんですよ。生涯学習局に行ったらね、 「早寝・早起き・朝ご飯」しかないっていうんですよ。で、うちの学校の話をしたら、 それは大変マッチングしているけども、文部科学省の組織的に全国組織を援助することはできないだそうですよ、 今までの縦割りのやり方があるので。で、自治体だったらできるんですよ。 だからうちの学校を例えば滋賀県でやるとして、滋賀県に対して文部科学省は助成金を出せる、 でもKU−MAそのものには出せないって言ってました。でも大変言ってることはわかってくれて、 お互い頭を絞って考えましょう。とにかく大事なことは広げることだからと話をしてきました。
それから今までで一番印象に残ってるミッションということで言えば、やっぱり「おおすみ」ですかね。 あれは苦労多かったですからね。4回うまくいかなかったですからね。1970年の2月11日。建国記念日。 わたしは大学院生でした。大学院入って2年目に1号機が打ち上げられて、次から次へとダメでした。 マスター終わるときにマスコミにいじめられて引退して、それでそのあと引き継いで、みんなでやって、 結局70年に打ち上げたんですが、あのときのうれしい気持ちっていうのはその後も二度となかった感じがしますね。 若かったからでしょうかね。
あとは80年代のハレー彗星探査機ですかね。 あれは地球脱出っていう地球の重力を脱出して初めての日本のミッションだったので、 あれは見事にいきましたけど、非常に世界中の協力がありましたので 、あちこちあちこちに行っていろんな人と国際協力と、国際競争もありましたけど、やりながら、 ずいぶんと5年間充実した日を過ごした感じがしますね。 脱した瞬間は日本から見えなくなるのでアメリカが確認してくれたんですけど、 最初は「さきがけ」っていう1号機だったんですけど、あれはロケットの開発とアンテナの開発と探査機の開発と、 それからソフトウェアの開発と4つ全部新しかったので、ものすごく忙しかったけど、ものすごくうれしかったですね。 成功しましたから。
それからおそらく3つ目は「はやぶさ」を言わなくちゃならないんでしょうけど(笑) 「はやぶさ」は還ってきてからですね。打ち上げたときは、数ある、 僕がつきあった30くらいの衛星のひとつだったんですけど、ただ僕はそのとき内之浦の発射場の所長をやっていて、 所長として最後の打ち上げだったんです。そういう感慨はありましたね。 ああ、これが最後かって。ちょうどそのプロマネを川口淳一郎君がやってて、 川口君が僕の最後の所長としての仕事っていうのは何か因縁だなぁってバカみたいな話をしていたのは覚えてますね。 ところが、だんだん興奮度があがってきて、途中まで新聞記者さんもたいしたことなかったですけどね。 ピンチに陥ってね、新聞記者の方が「もうダメですね、やめましょうよ」って言うんですから(笑)

―実際に3つあるうちの2つの制御装置が壊れてしまったわけですからね。

的川先生:コマが2つ壊れて、ガスジェットが全部使えなくなって、 その隘路をぬってみんなやりましたね。一番印象に残っているのは、 「はやぶさ」のチームがみんな「はやぶさ」の仕事が大好きになっていったプロセスですね。 どの衛星だって粘りはありますけど、みんな一生懸命やってるから。 でも「はやぶさ」については2枚腰、3枚腰で、あきらめないですから。 それで新聞記者たちが怒るわけですよ。「早く止めてくださいよ、俺だって忙しいんだから」って(笑) 2005年の半ばくらいまでそうでしたよ。また逃げ切る手が見つかって、 「このやり方でやることにしました」って記者会見したら「えー、まだやるんですか」って言うんですから(笑)
ただ「はやぶさ」は実験機だったので、必ずしも還ってくる必要はなかったんです。 技術的な問題点さえ洗い出せれば、2号機でちゃんとやろうってことだったんですけど。 でも世間はそうはいかなくて「もうじき還ってくるかも知れない」って言ったら 「還って来なきゃ承知しない」って(笑)我々は、特に川口君はそういうプレッシャーで大変だったと思いますね。 「こんなはずじゃなかった」って思ったと思いますね。

―でも本当に国民的期待があって、 それに応えなきゃというプレッシャーは現場ではさぞ大変だったことと思います。

的川先生:まだ十分に「はやぶさ」のことは総括しきれていませんけど、 でもやっぱり半世紀の宇宙技術の積み重ねの集大成として、きちんと総括しなくてはと思っています。 集大成したのは、運の良さもずいぶんあるでしょうね。なんで運がよかったのかなってことですね。 川口君の行ないがあんまりいいとは思えないし(笑)なんだろうね。 それはきっと半世紀間みんなが一生懸命宇宙開発したからじゃないのって言ってましたね。 奇跡的に集大成された感じがしますね。この3つくらいですね、一番印象に残っているのは。 それぞれ言えばきりがないような面白い話がいっぱいありますけどね。

―長時間、どうもありがとうございました。

北海道大学・永田 晴紀教授に伺いました

「缶サット甲子園」は宇宙への第一歩

北海道大学大学院 工学研究科教授

永田 晴紀

1994年、東京大学大学院・航空宇宙工学博士課程修了。96年、北海道大学大学院・助教授。2006年、機械宇宙工学教授。06~08年、宇宙航空研究開発機構 宇宙科学研究本部 客員教授。01年、「CAMUI 型ハイブリッドロケット」の開発に成功。08年、この業績で日本航空宇宙学会賞(技術賞)を受賞。

缶サット甲子園は、高校生が自作した空き缶サイズの模擬人工衛星を打上げ、 上空での放出・降下・着地の過程を通じて、技術力や創造力を競う競技会。上空での環境観測や写真撮影など、 各自が設定したミッションの精度を競います。このプロセスは、宇宙開発に必要とされる最も基本的な技術のひとつ。 全国大会へ、アメリカでの世界大会へ、そして宇宙を目指してください。 一緒に宇宙を目指そう!「缶サット甲子園」!

  • EDIT:北海道新聞社広告局/nu
  • TEXT:株式会社フロッグカンパニー  中嶋博孝
  • PHOTO:三枝聡明
  • 記事公開日:2013年4月19日 朝刊 掲載

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