当社が標津町川北の地に「小さな総合建設業」として創業したのは1954(昭和29)年です。まさに戦後開拓期でした。創業後、いち早く重機を導入し、道路や農地造成など総合建設業としての実績を築いてまいりました。
建設業は仕事の仕上がり、地球環境の保全、社会貢献など多くのニーズに高いレベルで応えていかなければなりません。最善の施工と最高の品質提供を目指すため、昭和40年代前半、それまで受注全体の2割程度だった農業土木に軸足を移し事業転換を図りました。
そんな中、創業者である父・上田景光(かげみつ)が急逝し、私が経営を引き継ぐことになりました。私は新しい技術を採用した重機・車両の更新に全力を注ぐことにしました。
1998(平成10)年度をピークに公共事業が減少し当社も苦境を実感しましたが、競合事業者が少ない分野を歩むという先代の英断によって競争で疲弊するリスクを避けることができました。
昨年度、当社が手掛けた草地整備工事面積は約1200ヘクタールに及びます。外注することはせず、すべて直営で施工に当たります。天候が不安定な根釧地域に点在する広大な草地整備を受注し、雪解けから8月末までの間に耕起(こうき※1)作業や施肥(せひ)・播種(はしゅ)作業を完了させることは並大抵のことではありません。それらを毎年可能にしてきたのは、経験豊富なオペレーター一人一人の情熱と小さな工夫の積み重ねによるところが大きいと思います。
地域に根差した企業として新規事業にチャレンジしてきました。
今から25年前になりますが、土木・建築資材などの販売・企画を手掛ける商社、有限会社コスモス※2を設立しました。当社の土木・建築資材の調達にとどまらず、1992(平成4)年から対外的な販売も始め、釧路や札幌にも取引先を拡大しています。2005(同17)年に地元の酪農家をサポートするため、コントラ事業※3をスタートさせました。
また2008年(同20)年、当社は日本製紙株式会社釧路工場と同工場内でのエコドライボール※4の製造業務契約を結び、EDB釧路事業所を開設し、さらに11 年(同23年)には、営繕業務を受託する日本製紙釧路工場構内事業所を開設しました。
これは単なる異業種参入ではなく、地域産業活性化のための事業です。ご存じのように標津町は日本一の鮭の町です。2008(平成20)年、標津町産業クラスター創造研究会※5が「標津ブランド丼」の開発に向けた試食会を行った際、偶然にも三井不動産関係者の目に留まり、関東圏への出店要請を受けました。ところが、出店資金も必要ですから引き受け手がありません。そこで、当社が「これも地域貢献の在り方」と名乗りを上げ、翌年、埼玉県三郷市の大型商業施設「ららぽーと新三郷(しんみさと)」内に「標津いくら丼 うえだ」を出店しました。
おかげさまで標津の海の幸(さち)は好評で、北海道と関東圏のおいしい笑顔の架け橋となることができました。7月18日には、同県入間市にある「三井アウトレットパーク入間店」に2号店をオープンする予定です。
1986(昭和61)年2月から隔年で、当社の野球場を会場に「ナイトイン川北 冬のつどい」という冬のイベントを開催しています。これは冬期間、外で遊ぶ機会の少ない子どもたちに夢を贈ろうと始めたもので、今では町の一大イベントとして定着しました。
開催日の1カ月ほど前から、当社も重機を提供して社員総出で雪のステージづくりなどのお手伝いをしています。イベントの準備期間は地元の水産業、農業、商業の垣根を越えてみんなが一つに団結できる貴重な機会になっています。標津町の人口は5500人前後ですが、今年も約6000人が訪れました。来場者の喜びの表情を目の当たりにすると、社員一同、もう感無量です。
これからも未来に可能性のある地域の夢と潤いを育ててゆきたいですね。
※1.田畑を掘り返すこと。
※2.1989(平成元)年5月設立。99(同11)年7月、株式会社に変更。
※3. コントラクト農業事業の略。契約により農作業を請け負うサービス。
※4. 2006(平成18)年10月26日「凍上抑制材」として「北海道認定リサイクル製品」に認定。循環第960-3号。
※5.2007(平成19)年、標津町に新しい産業をつくり出す目的で発足。クラスターは「集団、群れ」の意。会員はサケ定置網漁業や自動車整備工場経営、水産加工業、建設業など各業種の有志で構成。
うえだ・みつお 1946(昭和21)年10月20日、標津郡標津町生まれ。65(同40)年3月に株式会社上田組入社。71(同46)年から現職。2004(平成16)年4月から本年4月まで釧路建設業協会会長を務め、現在は同協会顧問。11(同23)年北海道産業貢献賞(土木功労者)受賞、12(同24)年、国土交通省大臣表彰(建設事業関係功労)受賞。